行く春を水面の空に惜しみけり  はるみ

 今年も千鳥ヶ淵の桜のつぼみがうっすらと色づき始めた。毎年、ここの桜に出会うのを楽しみにしている。初めに歩いたのは、むかし昔、吟行会で5句ほど句を作るためだったと思う。
 池のボートに気をとられて見ていたら、ボートの向こうに都会の真ん中だというのに、空が映っていた。まわりには車がはしりまわっているというのに。どんな俳句を作ったかは覚えていないけれど、俳句の吟行会のお陰で始めての東京、始めての横浜、初めての市川などを訪ねる機会に恵まれたと思うと改めて、俳句との出会いに感謝している。
 千鳥ヶ淵の桜が良いところは、屋台が出たり、音楽が流れたりしないところ。早朝に行けば、ゆっくり水を呑むために枝垂れているような、圧倒的な枝振りを仰ぎ見る事も出来るし、花の盛りを過ぎた頃には、ちらちらと降りつづく花びらを見ているうちに、いろんな昔に逢うこともできる。
 本当は、山桜が好きなのだけれど、千鳥ヶ淵は特別なところ。この桜を夜となく昼となく見られる場所に住んでいる友人がいるけれど、果たして特別な桜と思っているのかしら。

相生の一樹切らるる寒さかな  はるみ

 今年のお正月は思いがけず、娘一家と、夫のもっとも若い友人「幼稚園に通園中」のご家族と楽しい新春のひとときを過ごした。どうして、その少年が髭を生やしたおじさんを、友だちと認めてくれたのか解らないが、なにやらしっかりと友人関係が成立したらしい。
 おだやかなお正月のひととき、大人はワインをのみ、こどもはレゴやビリヤードをして、4時間がまたたくまに過ぎた。この歳になってつくづく、新しい出会いにあたらしい風が吹くのが嬉しい。私と同じ気持ちなのか、娘の家族の飼っている血統書つきの雑種の子犬が、みんなの間をくるくる回ったり、レゴを踏んで叱られたりしているのが、なんとも平和なお正月。
 書き留めておかなければと思いつつ、もう1月の終わりそう。
 庭の一樹切られた辛夷はもうしっかりと、たくさんの莟をつけている。

身幅ほど雪掻いてあり女坂  はるみ

 今週は何十年ぶりかの大雪が降り、東京の交通網と道路が混乱した。このことはかなり前から予告されており、なぜ、備えをしなかったのか、不思議でならない。
 ちなみに当日は夕方から大雪になると言う予告があった。その日、仕事の予定が入っていた私は、「こんな時に」と思ったけれど、一と月に数日の俳誌編集の仕事なので、休むという選択肢はなかった。それならと、雪の前に仕事をすませることにした。本来、10時スタートの事務所だけれど、6時40分に出発。8時事務所着で3時退出。。ほぼ予定通りの仕事をした。
 ただ、実際は事務所のある錦糸町駅についた時は、すでに雪が降り始めていて、内心はどきどきしながらの仕事。最近の気象庁の予報は絶対当る、と自分に言い聞かせていた。
 でも、ときどき近所の都立墨東病院にくる救急車のサイレンがきこえて、あの3月11日のように、帰宅出来なくなったら、と思うと気が気ではなかった。
 あれから4日、身幅ほど雪の掻いてあった住宅街の坂道もほぼ雪が消え、ところどころの雪だるまや、かまくらが残っているばかり。

帰宅して口きかぬ子や冬苺  はるみ

 私の住んでいる町はいわゆる学園都市で、私が帰宅する時、しばしば下校の中学生とすれちがう。声が大きいので、彼等の会話が近づいてくる時から、すれちがって、遠ざかる時までよく聞える。
 男子校なので、部活の話やスポーツの話題が多いいけれど、定期試験の時の会話に一日の疲れを忘れるようなエピソードがあった。
 その日は答案が返された日だったのだろう。何組かのグループが点数のことで、嘆いたり羨やましがったりしていたのだけれど、1年生と思われる3人づれの会話に思わず笑ってしまった。
 一人が「今日のテストさあ、68点と76点だったけど、2枚見せる時どっちを上にしたらいいと思う?」というと、「どちみち叱られるよ。」と言う少年にもう1人が、「うーん、僕なら68が上かな。」と助言していて、そのあと、どうなったかは聞こえなかったけれど、なんて平和な悩みかと。私にもきっとあったこんな年頃は宝物のような時間。

山茶花やすれちがふ子に日の匂ひ  はるみ

 我家の近くの小学校では、落葉の季節になると、住宅街の落葉を掃く、という課外授業がある。桜並木の紅葉した落葉を子供たちがグループに分かれて掃いているのは、童話の本の1ページを見ているよう。
 一心不乱に作業している子もいれば、ただただ落葉をかきまわしている、としか思えない少年もいる。そんな時、それを窘める少女の声はまるでお母さんのようで、小学校の5、6年生では、男子は格段に子供に見える。
 駅の近くで所用をすませて同じ道を戻ると、落葉はところどころ小山になっていて、道は見違えるようにこざっぱりとしていた。
 通り過ぎた、その時、何か後ろで声がした。振り向くと、落葉の山に散歩の犬が入って、くるくる回り出した。「いけません。いけません。」と飼い主が綱をひくけれど、よほど楽しいのか犬はしばらく止めなかった。赤いのや黄色い葉が空中に舞っている。
 そう言えば、昔飼っていた我家の犬も散歩の途中に、落葉だまりを見つけると、遊んでいた事を思い出した。落葉が動くと季節の香りがしたことも思い出される。

声がはりせし少年や初嵐  はるみ

 私にとって4番目の孫がこの夏オランダの友人宅に出かけた。学校友達のお宅にうかがったと聞いていて、どんな経験をしたのか、他所のご家庭で礼儀正しくふるまえたのかしら、などと余計な心配をしていたけれど、まず、メールの動画で、帰国した彼に飛びついている子犬とのやりとりを見て一安心した。どうやら、素敵な度だったらしく、全身からいきいきした様子がみてとれた。そして会ってみると、なんと彼は短期間の間に一気に背が伸びていて母を追い越していた。しかも旅の報告をする声のトーンが低くなっている。
 娘しか育てていない私は、他所の少年が久しぶりに会った時、声が変わっていて驚いたことはあるけれど、身近に声を聞くと、「もう、彼は青年へのスタートを切ったのだ」と納得した。
 夏休みは子どもが少女に、少年が青年になる季節かもしれない。
 山荘での毎日、家族の誰かが食後のお皿を洗うのが我家の習慣だけれど、台所に立った彼がすっかり大人で、そのことにも少し涙ぐみそうになった。歳をとった証らしい。

笑ふたび太る子どもや草の花  はるみ

 1昨日長野から戻った東京は蒸し暑かったと言うのに、今日は10月なかばの気温。こよみの上の夏はとっくに終わっているけれど、この違和感は何? つい、この間まで、長野では芙蓉が日ごとに真っ白な花や底紅の花を咲かせ、野菊が咲き乱れるていたのに、折からの台風15号のせいで、東京のマンションの玄関には欅の落葉がたくさん落ちている。蟬の声も魔法のように、消えてしまった。
 私に来年は来るのかしら、と思うようになって、何年になるだろう、たしか、ガンジーの「永遠に生きると思って学べ」と言う言葉があったけれど、それは凡人には少し難しい。数日後の句会に出す句さえ、ようやく、、、という有様で、学ぶ域には達していない。少し今日は八月の終わりのゆううつの気分。
 去年の11月から俳誌の編集を引き受けるようになって、仕事のためにさく時間がかなり多くなった。事務所に行かなくても、原稿依頼のための電話のやりとり、各種の礼状、詫び状、などのためにかなりの時間がかかる。
 そんなとき、この近くの保育園の子どもたちのお散歩に出会ったことがある。みんながばらばらにならないように、繩電車のように繩をもって歩いているのが可愛い。と言っても、列をなしているとは言えない。ひとりが笑うとあっというまに、みんなが身をよじって笑う。繩電車はたちまち。まあるくなったり三角になったりする。先生が「広がったらだめでしょ。」というと、何がおかしいのか、もう、笑いに笑う。こんなふうに、秋風の中でこの瞬間も子どもたちは育っているのだろう。彼らに時間はほぼ無限につづくのだから。