菜の花や一人で行けば遠き道  はるみ

 小鳥の声で目を覚まし、カーテンを開けると、どの窓もさくらが満開。息をのむとはこの感覚かもしれない。とその朝思った。というのは、娘の家族と娘婿の両親としばらく軽井沢に行っていて、まだ冬の暮らしをしていたからだった。子供が裏庭の雪でかまくらを作ったり、橇あそびをするのを見ていて、すっかり冬の名残の中に身をおいていたので、不意打ちのさくらだった。「そろそろ家に入らないと風邪引くわよ」「靴が濡れたら困るでしょ」「あたたかくなったら煖炉の煙突掃除してもらわないと」の世界から不意打ちの春である。
 住んでいる町はたてよこ、どこの小径もさくら並木になっていて、それから数日、さまざまな種類のさくらを楽しんだ。
 中でも、近くの仙川沿いのさくらは意志があるかのように、大きく川面に枝をのばしていて、千鳥ヶ淵のさくらの素朴派という風情。本当は山桜が好きな私も、しばし見とれてしまった。
 その川にそった遊歩道にひとりで散歩をされている年配の方が多かった。一人歩きがお好きなのか、それとも、伴侶を亡くされたのか、わたし自身もひとりだったけれど、さくらの花をみると芭蕉さんの「さまざまなこと思い出すさくらかな」の句に暗示をかけられてか、いろいろなことを考えている自分に気がつく。